Interview 01:
領域代表・生理心理班代表
月浦崇(つきうら・たかし)
本プロジェクトの代表であり、脳と記憶を研究テーマとする「生理心理班」の代表でもある月浦崇さんに、生涯学というアイデアが生まれた経緯や研究のコンセプトについて伺いました。
<記事公開日> 2021.9.16
このプロジェクトで謳っている「従来の加齢観の刷新」とは、どういうことでしょうか。
人間は、生まれて、成長して、やがて衰え、命を終える。これがもっとも一般的な生涯観だろうと思います。たしかに、生物学的に見れば脳の構造は加齢とともに衰えます。私の専門である脳と記憶の研究から見ても、加齢につれて記憶力が低下するのは事実です。社会でも、老いることは「能力を失うこと」だと捉える場面が多く見られますし、社会制度上も高齢者は守られるべき「弱者」として扱われています。
しかし、人生100年時代が来ると言われているのに、何十年にもわたる高齢期をただ、「衰えていくだけの期間」だと捉えていていいものでしょうか。
実は生涯学というアイデアの源流には、ラットの脳に関するこんな実験がありました。ラットも人間と同じく、高齢になると身体にガタが来て様々な動作が覚束なくなるのですが、ラットの脳と機械を直接的につなぎ、身体動作を介さずに神経活動を取り出してみたところ、驚くことに若い時と同じような認知機能を保っていることがわかりました。
つまり、高齢になったからといってすべてが衰えるわけではなく、認知機能として残っていても十分に発揮されていない機能がある、ということです。それはヒトでも同じではないか? ヒトを対象として科学的にちゃんと追求してみよう、というのが生涯学の始まりでした。
脳の働きやメカニズムを研究する分野だけでなく、社会学や文化人類学も含まれているのはどうしてですか?
そこが非常に大事なところで、「ヒトの記憶」を例としてお話ししますと、加齢とともにすべての記憶力が一様に落ちるわけではないんです。たとえば、ひとりで黙々とこなした物事については忘れやすいけれど、誰かと一緒にとりくんだ物事は記憶にとどまりやすかったりします。
すなわち、記憶は加齢による脳の器質的な変化と、他者との関係のような社会的要因の相互作用で変化を起こしていると考えられる。「心を揺さぶられた物事はよく覚えている」といった個人の内面の要因、その時の体調の良し悪し、騒音や匂いといった外部要因なども大きく作用します。
生物学的な加齢による脳の変化はこれまでもずっと研究されてきました。社会関係や外部環境が人生にどんな影響を及ぼすのかという問いは社会学で研究されてきました。しかし、両者を組み合わせて「加齢による変化」を追求しようという研究はほとんどありません。各々の分野の中だけでは扱いきれないからです。
また、文化人類学は社会の多様なあり方を描き出す学問であり、現代日本の加齢観とは異なる加齢観をもつ社会があることを教えてくれます。たとえばエチオピアのある地域のフィールドワークによれば、女性や高齢者などの土器職人が社会の中で重要な役割を担っていて、「加齢=衰え」という単純な図式に当てはまりません。
このように、脳のメカニズムを探る実験心理学があり、それを包み込むように個人と社会との関わりを見る社会学があり、その外側に社会や文化の多様性をあぶり出す文化人類学がある。その3層で「生涯学」プロジェクトを形成しています。
そしてもう一つ、このプロジェクトを強く特徴づけているのは「社会実装の出口」です。社会教育・生涯学習を専門とされている石井山竜平さん(東北大学教育学研究科准教授)のところに、心理学、社会学、文化人類学の各領域から加齢や生涯観に関する基礎研究の知見が提供され、生涯学習の現場を通じて社会に還元されていく形を目指しています。
たとえば、「ひとりで作業するよりほかの人と作業するほうが記憶が定着する」という知見が実験心理学の研究班の成果として出てきたら、それを石井山さんが担当している社会教育主事講習で紹介する。社会教育主事とは地域の生涯学習のリーダーですので、その知見を活かすルートになると期待しています。 個々の成果だけでなく、「『加齢=衰退』ではない」という生涯学のコンセプトを、この講習を通じて社会教育に関わる方に知っていただくことも大きな目標のひとつです。
月浦さんの研究班(生理心理班)ではどのような研究をされるのですか?
健康な20歳代(主に大学生)と健康な高齢者(主に60代以上)の脳を、fMRI(機能的磁気共鳴画像)で比較しながら、加齢にともなう記憶の変化とその基盤となる脳のメカニズムについて調べています。
よく覚えているときに共通する条件があったり、同じ高齢者でもよく覚えている人と忘れやすい人の差がどこにあるかなどを検証していくと、単に「若ければよく覚えていて高齢だと忘れやすい」だけではないことが見えてきます。
ただし、脳機能画像でわかるのは相関関係までです。脳のAという状態と忘れやすいという現象に関連があることはわかっても、Aだから忘れやすいのか、忘れやすいからAなのか、別の原因があるのかまではわかりません。
そうした因果関係を知るために、脳に損傷を受けた方、疾患を持つ方の記憶検査によって、脳のどの領域が損傷されるとどんな記憶ができなくなるのかを探る研究との二本柱で進めています。
研究班同士はどのように連携するのでしょうか。
本格的な連携はこれからですが、私の班がfMRIで「共感と幸福感(well-being)と脳の状態」の関連を調べた研究の成果をほかの班の方々と共有したところ、well-beingをテーマに研究している社会学の柴田悠さんが興味を示され、その知見がこのプロジェクトの社会調査に反映された、という例が生まれています。(参考:柴田悠インタビュー)また、心理学・社会学・文化人類学の各研究班による基礎研究の成果や新しい生涯観を教育現場に伝えることで、教育現場からもそれに対するフィードバックがあるでしょう。そうした基礎研究と社会の現場との循環も作りたい。この「生涯学」プロジェクトを、様々な可能性を拓いていく場にしたいと思っています。
<プロフィール>
月浦崇(つきうら・たかし) 京都大学大学院人間・環境学研究科 教授
宮城県出身。東北大学教育学部から同大学大学院医学系研究科博士課程に進み、2001年博士号取得(障害科学)。独立行政法人産業技術総合研究所脳神経情報研究部門研究員、デューク大学(アメリカ)認知神経科学センター客員研究員、東北大学加齢医学研究所准教授、を経て京都大学大学院人間・環境学研究科准教授に着任。2017年より現職。脳機能イメージング(fMRIなど)や脳損傷患者への神経心理学的方法、健常者への実験心理学的方法等の多様な手法を組み合わせてヒト記憶の脳内メカニズムを研究している。
<取材日>
取材日:2021.7.21
取材・構成:江口絵理
撮影:楠本涼